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Piece of Syria(ピースオブシリア) | シリア難民
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アッサラームアライクム! Piece of Syriaのへむりです。   お待たせいたしました。シリアの人たちに起こった変化の続きになります。 前回は、シリア国内の「勢力図」の変化についてお話をさせて頂きました。 今回は、シリア国内における「生活面」の変化について、お話できればと思います。   [caption id="attachment_16069" align="alignnone" width="1024"] 一番お世話になったお家。[/caption] ● 1日1ドルの豊かな生活   僕がシリアに住んでいたのは2008-10年です。   その当時、僕が一番お世話になっていたのは、マンベジ市にある小さな村の家族でした。   両親と女の子3人(短大生、高校生、中学生)、男の子2人(小学生)のおうちで、生活費を稼ぐ父親は、村の保健センターで働く用務員さん。受付、掃除、ワクチンの管理などをしていました。   月収は200$ほど。シリアでも、決して多い方ではありません。 計算すると、一人当たりの生活費は1日1ドル以下になります。   しかしながら、子ども達を学校に通わせて、里帰りの家族旅行に行ったり、僕や近所の人たちにご飯を振る舞うことも日常的にしている余裕がありました。僕もあまりにしょっちゅう、ご飯を出してもらって、泊めさせてもらっているから、家賃のようなものを渡そうとしたら、断られました。   家も、田舎だからということもありますが、小学校の運動場くらいの大きさの庭付きで、リビングは絨毯が敷き詰められた50m2ほどの大きさがあります。   こうした「余裕」には、シリアの豊かさに加え、当時のシリア政権の政策が大きく影響があるように思います。   [caption id="attachment_16070" align="alignnone" width="1024"] 村のお家のリビング。本当に広い![/caption] ● 僕の見たシリアの豊かさ   野菜はkgあたり20円ほど。旬野菜であるかどうかで値段は変わりますが、それにしても安い。 主食であるホブズ(ナンのような丸いパン)も非常に安価で買うことができました。     交通費も、バスやセルビス(同じルートを周るワゴン車を使ったバスのような乗り物)が15円ほどで乗れたり、長距離バスなら、大阪〜東京間ほどの距離を、3列シートでも400円ほど。 市内のバスで老人や女性が入ってきたら、男性達は無言で席を譲り、それに礼を言うこともなく譲られた方が席に座ります。年配の方や女性を敬うのが当たり前だからです。   学校も、大学まで無料。就学率は97%だったそうです。 小さな村まで塾や、女性対象の識字教室があり、教育熱心な国だと感じました。   医療も無料です。薬も国内産で、非常に安価でした。   犯罪の遭遇率は、日本の20分の一。つまり、日本の20倍の治安の良さ。体感的にもそれは感じました。実際、落し物はすべて返ってきました。カメラ・携帯・腕時計・現金にいたるまで・・・。   何より、もっとも素晴らしいと感じたのは、おもてなしの心です。 買い物客として行ったのに、お茶やサンドイッチをご馳走してくれます。 道がわからないそぶりを見せようものなら、バッと人が集まってきて助けようとしてくれます。 バスで隣に座った人が、自分の家に招待して、昼ご飯をご馳走しようとしてくれます。 喉が渇いたら、そのあたりに家をノックすれば水を出してくれ、そのまま家に招待してくれます。 通りすがりの結婚式に招待されて、一緒にご飯を食べ、一緒に踊らされます。   そんなことが日常の豊かな国でした。   [caption id="attachment_16071" align="alignnone" width="1024"] 安く美味しい国産野菜・果物にあふれていました[/caption] ● 戦場になった僕の村   「覚えているかい?村の先生をしていたアフマドだよ」   2015年。シリアの村の友人から連絡が来ました。     僕が住んでいたマンベジは、ダーイッシュ(IS)に占領されており、画像検索をすると「処刑場」が出てくるような、そんな状況でした。   僕がいた時、村の人たちは携帯は持っていても、メールやSNSは使っていませんでした。 (世界的にスマホがまだ出始めた頃で、日本でもFacebookの利用者は少なく、mixiが流行っていた時代です)   なので、シリアの村の人たちの連絡先は知らないまま、日本に帰って来ていたのです。   何より、村には連絡することなく行って泊めてもらうことが日常でしたから、 そうした連絡先を必要としなかったのです。   またすぐに会いに行けるから、と。   しかし、「起こりえないはず」のいわゆる『アラブの春』が、シリアを戦場にしました。   今は行けないけど、すぐにまた行けるようになる・・・。   その思いと裏腹に、続くシリアを戦場にした紛争は、止むことがありません。 そして、僕のいたマンベジに侵入して来たダーイッシュ。   仲良くしていた人たちはどうなったのだろう? 不安な気持ちが募る中、確かめる術を持たず、どうしようもできないでいました。     どうにかして動きたい。   その想いで、シリアの中に入ることができなくとも、難民の住む地域に行ってみようと、ヨルダン・トルコ・イラク・ヨーロッパに向かったのでした。 そして、帰国後にPiece of Syriaの活動を始めました。   まさに、その時に、連絡が入ったのです。   「覚えているかい?村の先生をしていたアフマドだよ」と。 彼を通して、僕の仲良くしていた人たちの無事も確認できました。   [caption id="attachment_16072" align="alignnone" width="1024"] アラビア語で「マンベジ」と画像検索したら…[/caption] ● お金が足りない   あの豊かだったシリア国内の生活は、今は生きて行くことが精一杯な状況です。   人口の1/4が海外に難民として、1/4が国内避難民として生活しております。   「元々いた土地を離れる」というのは、代々続いた土地を手放すということで、家、家具、仕事、家畜、農場、築いて来た人間関係、それら全てを失うということです。   200ドルで豊かに暮らしていた生活も、通貨のシリアポンドの下落により、価値が1/10へ。 つまり、物価が10倍になっている、ということです。   今は、シリア国内の野菜など物資の量は充分だということですが、それを買うお金が不足しています。   移動や輸送には、お金とリスクがつきまといます。 政府軍・反政府軍・ダーイッシュ・アルカイダ・クルド軍のほか、有象無象の様々な勢力が陣取っており、検問でチェックを行なうそうです。   ある人が教えてくれた情報では、「1000ドルを支払えば、トルコ寄りのシリア国境から首都ダマスカスまで、安全に移動できる」と言う話でした。   安全も、お金次第なのです。 ただし、すべての場所が危険だというわけではありません。日本の一部で起こった地震が全土に影響していないのと同様、安全な日常生活を送っている地域もあります。   ですが、10倍の物価上昇は、すべての場所の日常生活に影響を与えており、生活費が足りていません。 また、働き手である男性は、各勢力によって兵士として駆り出されます。 シリア人同士で殺し合いをしたくない、と徴兵制を避けるために、国外へ向かう男性も多くいます。彼らは難民となった場所で稼いだお金を、様々な方法で仕送りしています。   就学率97%で、あれほど豊かだった教育も、50%以下へ。 場所によっては6%ほどになった、というニュースもありました。   想像してください。   あなたの給料が9割カットされて生活すること。 1年生の時、40人学級だったのが、6年生の時に2人しか残っていない学校を。     ● 友人としてできることを探して   もともと貧しく、戦争ばかりしていた人たちが難民になった訳ではありません。   もともと豊かに、平和に、家族を愛して生活をしていた人たちが、難民として、あるいは国内で困窮して生活せざるをえなくなってしまったのです。   僕らはこれからも、「困っているから助けたい」のではなく、 友人としてできることを精一杯考えて、行動をしていきたいと活動をしています。   それを是非、皆さんと一緒に動いていきたいなと思っています。   では、次回は、シリア国外での変化について、お話できればと思います。  ...

アッサラームアライクム。 Piece of Syriaの中野です。   現在、ラマダンが明け、イスラムの新年にあたる「イード」のトルコにいます。   17時間ほどの長距離バスで、南部の方に到着し、街の人口の70%がシリア人と言われる場所までやってきました。   街中を走るバスは、イードと言うことで無料でした。街の中心部まで、その無料バスに乗って、友人であるシリア人と合流しました。   ●失われる故郷   まず近くのカフェに連れて行ってくれました。できたばかりでオシャレな雰囲気。 気温は43度と表示されていたので、歩くのも億劫な暑さですが、日陰のオープンテラス、しかも扇風機もしっかり周っていると、案外心地良いです。   そのあと、彼の親戚のおうちに一緒に行かせてもらい、新年の挨拶まわりに同行するような形でお宅訪問。ご飯をご馳走になりました。   聞くとラッカ(ISが「首都」と定めたシリア北部の町)の出身で、ISがラッカにやって来る前にトルコに避難してきたとのことです。   現地から様々情報が届くらしく、数日前にシリアにある自分たちの家の近くに爆弾が着弾したが、家はまだ壊されていないんだ、と言っていました。 しかし、ラッカは建物も道路も産業もボロボロだそうです。     ●見えない壁   彼の家へ移動し、荷物を置くと、次はホテルのプールに連れて行ってくれました。   五つ星ホテルの地下にあるプールは、ジムやサウナ、スチームサウナとハンマーム(浸かる場所がない銭湯みたいな所)もついていました。   彼は、彼女も呼んで、時折、微笑ましいカップルの交流を見せつけてくれます。   ですが、その帰り道に話を聞いていると、彼女はクルド系のシリア人、彼はアラブ系シリア人。その民族の違いから、結婚を相手の家族から断られているとのことでした。   幸せに見えるカップルに、見えていない壁があることを知りました。     ●何もない生活   夜に屋上で、彼と語りました。   「何もないんだよ。ここの生活は」   出逢った時に勤めていた国際協力団体NGOを辞め、そのあといくつかの団体に所属していた彼ですが、今も転職を考えています。   トルコに住むシリア難民にとって、最も待遇が良い仕事が「シリア難民支援」の団体職員でした。   しかし、「数ヶ月前から、教育に関するNGOが活動できなくなったんだ。生活支援に関することはできるけど、多くの国際NGOが活動できなくなっているし、シリア難民の労働が認められなくなってきているんだ」と言います。   なので、英語を話せて、学歴や経験のあるシリア人たちが、そうした仕事を失い、長時間労働で給料の安い単純労働に従事しつつあるんだそうです。 また、トルコからヨーロッパに向かう難民の数は激減しました。トルコがギリシャへの密航を取り締まりをしているんだそうです。   僕が去年、ギリシャのレスボス島に行った時には、トルコからギリシャの島までは来れても、そこから本土、ヨーロッパに向かえない、という状況でしたが、その島までも行けないという話でした。   トルコでの仕事はなくなり、ヨーロッパにも行けず、シリアに戻っても仕事がないし、安全もありません。 どこにも希望を見出せずに、トルコ政府の方向転換に左右されて生きていくしか無い現実。   同居人たちは仕事を失い、シェアルームの家賃も三分割していたものを一手に引き受けなくてはいけないと言います。   そんな現実の中で、シリアにいた時は飲まなかったお酒を飲みながら、笑顔で僕らを歓迎してくれているのです。   そんな彼がふとこぼした言葉でした。   「ここの生活には何もないんだよ。ただただ生きるために仕事をする。家族とは離れ離れだ。月末にはほとんどお金は残らない。結婚も難しい。自分たちの国はどうなるか分からない。このまま、何もないまま、いつかトルコで死ぬんだ。きっと」     ● 見えなくても、世界にあるもの   シリアに関する報道は少なくなりました。 シリア国内についても、こうした難民として各地に生活する彼らの状況についても。   見えないからと言って、起こってない訳でありません。   空爆や戦闘ほど、ニュースとして大きく取り上げられないですが、今もなお、その戦争もために国外に行かざるを得ない人たちの、厳しい現状が、ここにあります。    ...